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『静寂への誘いⅡ』


藤村詩抄 (岩波文庫)

藤村詩抄 (岩波文庫)




洛西のはずれ、常寂光寺を頂く山の麓にそれはある。
それは、山と竹林と畑に囲まれてそこにある。
一見すると見逃してしまいそうなほど静寂に溶け込んだ小さな侘び住まい、それが落柿舎だ。

ここまで来ると、都会の喧騒は全く届かない。
そう遠くない場所にあるはずの嵐山の賑わいも、別世界の幻想だ。
ここにはただ、優しい静寂が澄みやかな空気を抱いて満ちている。
松尾芭蕉の弟子、向井去来の別宅であったというこの侘び住まいは、
名前の通り秋が見ごろなのかもしれない。
しかし、あえてこの時期の訪問をお勧めする。


最初にここを訪れたとき、実は沈鬱な気持ちであった。
日常生活に疲れていたこともそうであったが、
予報になかった雨に降られていることも気持ちを落とすのに十分な働きをした。
道筋が不確かなのもいけなかった。
地図もなく、雨に濡れながら不確かな道を歩く様は、
まるで自分の人生そのものだと苦笑せざるを得なかった。
畑越しの一本向こうの小道沿いに落柿舎の姿を認めたとき、
なぜか子供時代の田舎の風景が脳裏によみがえった。
目的地がハッキリとし、足取りも確かになり、心なしか雨も弱まってきたようだ。
実際、入り口にたどり着いたころには雨はやんでいた。
ほんの少しの逡巡の後、中に入る。

踏み入れたそこは一個の『桃源郷』であった。
小さいが、確かに桃源郷だった。
洗いざらしの空気に包まれ、木々の葉はようやく差し始めた薄日に水滴を輝かせる。
裏の畑でウグイスが鳴き、その声は竹林にこだまして幽玄の世界に誘う。
ほころび始めた梅の木にはメジロが遊び、僕の心もメジロと共に遊ぶ。
しばし時を忘れて佇む。

落柿舎は俳人の別宅であったことから、庭内には俳句を投稿する為の竹筒が設置してある。
そこで詠んだ一句。
   『侘しさや
      落柿の舎に
         柿拾う』
後ろ髪を引かれる思いを振り払ってそこを出る。
路地を二つ三つ折れたところで、漸く現世に戻ってきた自分にふと気付く。
京都はこんなところにも異世界を内包しているのだ。


帰路、列車の中。
なぜだろう。
こんなとき思い出すのが、京都の、夏の、祭りの風景だったりする。
全く逆の、静寂に酔って来たばかりなのに。
静寂は好きだが、夏の京都の熱気と華やかさも、そう嫌いではないのだ。
京都を表す言葉として『はんなり』という言葉があるが、これは『花あり』から来た言葉だと聞く。
桜の時期の、この街を包む柔らかな空気と共に、そこはかとない儚さがこの一言で表現されている。
夏の京都の熱と華やかさの裏にもそこはかとない儚さを感じるのは僕だけだろうか?
だとすれば、侘しさも華やかさも背中合わせなのだといえるのだろう。
千年の歴史を持つこの街では。
ここで一句。
   『千年の
      光集めて
         舞い踊る』
あと千年経っても京都の魅力が損なわれないでいるよう、そっと祈る。




今週の一曲
George Winston 『Longing/Love


Autumn

Autumn

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Windham Hill Records
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD



『マスコミの大罪』


日本人へ リーダー篇 (文春新書)

日本人へ リーダー篇 (文春新書)

  • 作者: 塩野 七生
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/05/19
  • メディア: 新書



先日何気なくニュース番組を見てた時、解説者の一言にピクッと反応した。
いや、別に、解説者がエッチなことを言ったから反応したのではない。
マジメに反応したのだ。
本当だって。
その時解説者は4月から上がる消費税について、
『財政再建のための消費税アップ』という趣旨の発言をしたのだ。
この発言はいただけない。
政治家の詭弁を追認するものであるからだ。

もちろん、今回の消費税アップが財政健全化への第一歩として行われることは真実である。
そんなことは百も承知だ。
だからその意味合いにおいて解説者は決して間違った事を言った訳ではない。
だが、しかし、である。
思い出してほしい。
消費税を上げる論議を始めるとき、政治家達は『税と社会保障の一体改革』と言っていたのだ。
ならば増税と同時にこの国の社会保障の形を提示してもらわなければ筋が通らない。
なのに彼らは消費税増税のスケジュールだけ決めて、社会保障については知らぬ振りだ。
どこかで細々と話し合われているのかもしれないが、形として全然見えてこない。
一体改革といった以上は、あくまで同時に提示してもらわねば。
正式に消費税アップが決定した今に至っても、
社会保障の目に見える変化は生活保護の後退という残念なニュースだけだ。
 (以前書いたが、消費増税を含めて五段階に減額される。
  これは特に単身世帯の受給者層に大きな負担になるだろう。)
これはよく言えば政治家の詭弁、悪く言えば詐欺行為以外の何物でもない。
こういうことを、マスコミには見逃してほしくないのだ。
政治家がきちんと、自らの発言を履行するように監視と追及を忘れてほしくないのだ。

仮に政治家達が、『財政再建のために消費税をアップします!』と言ったとしたら、
なぜこんな財政状況にしてしまったのか、
毎年毎年税収の二倍くらいの予算を組んでて何とも思わなかったのか、
等々、責任論が問われていたはずだ。
その責任は追及していけば政治家だけでなく、官僚にまで及ぶ。
当然そのツケは、政治家・官僚の待遇見直しと人員削減となって彼らに帰ってくる。
それらが増税の必須条件になっていただろう。
それを彼らは先述の『詭弁』によって回避しているのだ。
責任をはぐらかして、甘い汁を吸い続けているのだ。
こういった詭弁をしっかりと追及せず、追認さえしているマスコミの責任は、
『重い』と言わざるを得ない。


民主主義社会においてジャーナリズム(マスコミ ⊇ ジャーナリズム)が特別な意味を持つのは、
 (例えばニュースソースの秘匿は公に認められた彼らの権利だ)
政府・政治家・官僚等、権力の不正と怠慢を暴くことによって、追及することによって、
社会が正道を外さないように監視する役割を持つからだ。
そうすることによってジャーナリズムは国民の側に立つ存在になりうるのだ。

だが、現状、本当にジャーナリズムが国民の側に立っているのか、
疑問に思わざるを得ないのも事実だ。
過去の例を挙げると、
『日米安産保障条約』がいつの間にか『日米同盟』と呼び方が変わったこともそうだ。
英語ではどうか知らないが、
『安全保障条約』と『同盟』という二つの日本語の間には雲泥の違いがある。
故意に訳を変えることで同盟を既成事実化して国民の目を欺こうと彼らが考えたのなら、
それは権力の横暴であり、暴走だ。
これを放置し、または追従することによって権力の欺瞞を看過したマスコミを、
僕達はどう考えればいいのだろう。
もう一つ例を挙げる。
福島の原発事故の際、ある時からマスコミは一斉に『原発は安全だ』との報道を繰り返し始めた。
後になってみれば『フクシマ』は史上最悪の事故であり、決して安全な状況とはいえなかった。
周辺住民はもちろんのこと、
かなり広範囲の方々に一刻も早い非難を求めなければならないような状態であった。
 (事実アメリカは在日本の自国民に対して半径50キロ以上離れるよう勧告した。)
政府からのお達しがあったからなのか?
それに従うことがマスコミとして正しい判断だったろうか。
少なくとも僕はマスコミに対する信頼が崩壊してしまった。
パニックが起きるのを防ぎたかった?
ことはガソリンが無くなるとか、トイレットペーパーが無くなるといった瑣末な問題ではないのだ。
自分、あるいは大切な人たちの命に関わる問題なのだ。
この国の国民には、命の為にパニックになる権利すらないのかい?


ジャーナリズムが本来の機能を果たさないと、民主主義は容易に暴走する。
民主主義の暴走は、我々は『太平洋戦争』という形で経験したのではなかったか。
マスコミには猛省を促したい。





今週の一曲
The Alan Parsons Project 『Ammonia Avenue』


Ammonia Avenue

Ammonia Avenue